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「願いに生きる」

質問
坂木慧定先生とのご縁
答え

昭和62年6月、私は三人目を出産しました。上の二人の時と違って産後の状態がよくありませんでした。マタニティブルーと呼ばれる状態が長く続き、何事にも自信を失い、子育てに支障をきたすほどでした。

何か心の拠り所が欲しいと思って主人に相談したところ、さっそく三冊の本を紹介してくれました。その中の一冊が坂木先生のご法話を本にした『落在せるもの』でした。何かわからないけれど、そこに表現されている世界は、私の心の奥深いところに眠っているものを呼び起こしてくるような力があり、他の本には無い不思議な世界を感じました。私はその先生に是非会いに行きたいと思うようになりました。

年が明けて二月だったか、三月だったか、私は主人と三人の子供たちを連れ、石川県松任市の坂木先生のご自坊を訪ねました。初めて足を踏み入れる北陸の地は雪深く寒いのだろうと思い、一歳に満たない娘は福井市の知人のお寺に預け、主人と息子二人の四人で出かけました。

先生は奥様と二人でこたつに入って私たちの到着を待って下さっていました。上着にネクタイを締め、正装されているお姿を見て威儀を正される思いがしました。それはその後何度か訪れるようになって、その日一度きりのことだったことが知られるので、先生が如何に大切に初対面を迎えて下さったかが窺われます。このようにして、坂木恵定先生とのご縁ははじまったのでしたが、今でも稀有な方に稀有な出遇いをさせて頂いたことを不思議に思います。

その頃の私には、自分が先生の何に引かれているのか、自分でも分かりませんでした。直接先生から本の中のどの言葉に引かれたのか聞かれたことがありましたが、答えることができませんでした。今は先生の住しておられた境界、すなわちお浄土から醸し出される不思議な空気に魅了されていたのだと思います。言葉にできないその不思議な力、それは先生のお話からも、先生ご自身のお姿からも、透明な光を発していて、私はその言葉にできない雰囲気に魅かれていたのです。

それから何度先生のお寺に足を運んだでしょうか。回数としてはそんなに多くはなかったと思います。金沢の崇信学舎へも先生のお話があるというので、足を伸ばしました。いつも幼い子どもを連れてお寺に泊まらせて頂くことになるので、回りの方々には大変ご迷惑をおかけしていたことと思います。私は窮していたのです。生きるよりどころを求めていました。

しかしその時の私は、先生とお会いしても、何をどのように問うていいのかがわからず、先生の前に座ったまま、無言のまま時間だけが過ぎるということを繰り返していました。先生はそんな私にしびれをきらす事も無く、じっとお付き合い下さり、無理に話かけるようなことはされませんでした。せっかく京都から時間とお金をかけてお伺いしてもそのような有り様なので、私は次第に先生にお会いするのが心苦しくなっていきました。そんな煮詰まった状態の所へ、平成元年4月、私達は主人の自坊がある、大分県中津市に帰ることになり、先生とのご縁はますます遠のくことになりました。

生活は今までとがらりと変わり、それまでの何もかもが通用しませんでした。電話で先生のお声を聞かせて頂くだけとなり、それも次第に回数が減っていきました。先生がお年を召されて随分弱られたことをお聞きし、お見舞いに行きたいと願いながらも身動き取れない状態でした。平成7年5月に還帰されたことを随分後で知りました。

私はその後、家族ぐるみお導きを頂くことになった広島の大石法夫先生に出遇わせて頂きました。それは奇しくも坂木先生が還帰された平成7年のことでした。大石先生には13年間、お寺に毎月ご出講いただき、主人共々懇ろなるお育てを頂きました。その大石先生も初対面の時から、透明な光を放っておられて、私は強く引きつけられました。真宗の教えがどういうものなのか、微に入り細に渡り、生活の出来事を通してご指導頂きました。大石先生に導かれることが無かったなら、私は坂木先生のお心に出遇わせて頂くことはなかったのではないかと思います。その過程を経て私は坂木先生が住しておられた世界は涅槃とも寂滅ともいわれる滅度の世界、お浄土だったとうなずかれるようになりました。先生に初めてお遇いしてから20年以上を経ていました。この世に坂木先生はおられなくても私のすぐそばにおられて「これからや」とおっしゃっておられるような気がします。分からないまま知らず知らずのうちにお念仏の道を歩まさせていただいておりました。その歩みの始まりに坂木恵定先生に出遇わせて頂いていたことをこの上ない幸せに思います。

透明な光が私の中に種となって成長を続けました。時空を超えて生きる先生には“速い遅い”などということはないでしょう。無言で向き合う先生と私の傍らで、腹筋運動をしておられた奥様も、昨年お亡くなりになったと聞きました。分別を超えて生きた方の風貌がどんなものか、私の記憶にあるだけでも記すことにより、ご本願の大きく、頼もしい世界が世に伝わって欲しいと願います。そうして坂木恵定先生、大石法夫先生両覚者の願いに准じてゆきたい。そのような願いも透明な光から現来し、私を歩ませてくださる原動力となっています。
不可思議の世界。念仏往生のご生活をしておられる先生方に直に接することは現代においては極めて稀なことになりました。
念仏は偉大な世界。念仏は生きている。親鸞様は生きておられる。
生死を超えて生きる世界があることを教えて頂いたこと、何にも代え難い御恩です。
                             合掌

  平成21年11月16                    江本 法喜

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質問
転入の信
答え
 寺報『ラッシャイ、ラッシャイ』を読んで下さっている御門徒の皆さま、全国の同行さまに呼びかけ、念仏同朋奉仕団を結成して京都東本願寺の同朋会館へ研修に上山したのはこの8月22日のことでした。
 私は引率責任者の立場にありながら、この研修に出かける直前まで、問題を抱えて心は重く沈んでいました。それは数カ月前に娘と対立したことから端を発し、そのことが義母や長男にとどまらず、娘の嫁ぎ先にまで波及して一触即発の状態にまで発展していたのです。
 下手に手出しをすれば、お互いの関係が壊れてしまいかねません。私の精神状態は追いつめられていました。もう仏様にたすけていただくしかない、三日間の研修でこの問題の解決を求めたい。それにしても、もう娘とのことは解決済みだったはずなのに、どうして私のこころはこんなに不安で怯えているのだろう。こんなことで引率責任者が勤まるのか。私は初心に帰って自分の信心を明らかにしていただくつもりで研修会に臨みました。
 この念仏同朋奉仕団は寺報『ラッシャイ、ラッシャイ』を読んで下さっている方に呼びかけ結成されました。長仁寺のご門徒さまは4名、全国から合計30名の方がご参加下さいました。初めてお会いする方もおられます。私の書いたものを読んで「法喜さんに一度お会いしたい」と云って参加して下さった方も何人かおられましたし、引率責任者でしたから、お迎えする立場としての大きな責任があったのですが、正直なところ自分の直面する問題で頭はいっぱいでした。
 30名の参加者の中に、若い頃共に聞法していた平尾史代さんがおられました。彼女もまた重く厳しい状況の中から救いを求めて参加されていました。彼女は熱心に教導のご講話に耳を傾けていました。教導は常照さんです。常照さんとは30年ぶりの再会ではなかったでしょうか。常照さんに光を感じられ、やっと善知識に遇えたと云われます。そして法名をつけて頂きたいと私に相談されました。
二日目の夜は講堂に全員が集まり、車座になって自由な座談会となりました。私はその時間が終わったら、事情で早く退館される平尾さんのために、皆さんの前で平尾さんのことを紹介し、法名のことを聞いて頂きました。直面する問題を仏法ではどのように超えさせていただくのか、参加された皆さんの問題でもあります。平尾さんも直面する問題をご縁に、仏法に救われてほしい。この研修会に参加されたことを機に、聞法に深く根をつけてもらいたい、敢えて皆さんに聞いていただき、平尾さんも深く心に刻んで帰ってもらいたいと思いました。
それを受けて常照さんはその場で「釈尼法蔵」という法名を授けられました。私は驚くとともに感動しました。講堂の正面には「開法蔵」と書かれた額が掲げてあります。是非法蔵を開いて戴きたい、そのための聞法道場としての講堂です。そういう場でもっとも平尾さんに相応しい法名がつけられました。私はこの一連の出来事で私や常照さんが平尾さんに救っていただいたと感じました。今回の研修会が仏さまのみ旨にかなっていると証明されたように感じられたからです。
 平尾さんは一足早く帰らねばなりませんでした。玄関まで見送らせて頂いた私の目に、その足取りが軽く力強く感じられ、私の心が救われました。業のさなかで、どうにもならない苦しさを抱えて参加された平尾さんでした。そういう人に救いとならない仏法ならそれは仏法ではありません。私もかつて自分の身に迫り来る業の海に沈みそうになるところを救っていただいたのです。そういうとき恩師大石法夫先生は、「救急患者」と称されました。にっちもさっちもいかない苦しみを抱え、すがりつくように先生の元へ何度も駆け込んだことがあったのです。
 さて、平尾さんをお見送りして、私は自分の問題がありました。昼に感話があたったときは、仏様に聞いていただくつもりで皆さんの前で正直に自分の気持を聞いていただきました。明らかにしたい問題点をさらに自分に問うことになりました。皆さんの感話を聞かせてもらったり、法話をいただいたり、同朋会館の日程には、清掃奉仕もあります。食事は食堂で全員が揃っていただきます。そういう中で、私は次第に追いつめられた心が解かされていくのを感じていました。
 二日目の日程が終了したあと、特別に座談会を開くことになりました。それは自由参加の少しリラックスした場でした。それがすんで布団に入ったのは12時を回っていたかもしれません。それなのに早く眼が覚めました。時計を見ると2時半です。目が冴えて眠れません。
 「水を以て影を取るに、清と静と相い資(たす)けて成就するが如きなり。」のお言葉がどこからともなく浮かんできました。かつて大石先生がご法話の中でお話下さった『論註』の一節です。私は、先生がその一文を黒板に書いて説いてくださると、清浄な空気が醸し出され、どんな世界なのだろうかとあこがれをもって聞かせていただいたものでした。そんな清浄な世界に早く生まれたいと願わされました。その一節がふと浮かんできたのです。
 親鸞聖人のご真影の前に座らせていただき、サンガの人たちと共に読経し、お話を聞く。そういう場に身を置かせていただいて、はてしなく広がる本願の海に身を投げ出されたような感覚がしました。群生海、本願海というお言葉も浮かんできます。すべての生きとし生けるものは、仏さまに生かされている。尊い存在として。
 私は娘のことがいつも問題でした。娘のことがいつも気になるのでした。苦手でした。でも、広い南無阿弥陀仏の海に帰入すれば、問題なんて無いのです。私の無始以来の迷いから生じる妄見がそういう形で出ていたのです。

驢の井を覗くがごとし

 これも大石先生からよく聞かせていただいた一節です。私の我が出ると、目の前に映るのです。その深い迷いにきづかされたら、問題と見ていた娘も消え、同時に私も消えたのです。本来、困らすものもなければ、困らせられるものもいない。あるのは南無阿弥陀仏だけです。この世は南無阿弥陀仏のひとりばたらきです。曠劫以来の私の迷いが娘を問題と見ていた・・・。娘とひとつになりたい、分かりあいたいという願いは、自分の思うようにしたいという私の邪見でした。本来ひとつの世界に生かされている、そのことに気づかされました。
 広く静かな世界が開けてきました。

 家に帰って「水を以て影を取るに・・・」のお言葉が『論註』のどこに出ているか、常照さんに聞いて調べました。「柔軟心(にゅうなんしん)」のところにありました。

 「柔軟心とは、謂わく、広略の止観相順じて修行して、不二の心を成ぜるなり。譬えば水を以て影を取るに、清と静と相い資(たす)けて成就するが如きなり。

 実の如く広略の諸法を知る。

 如実知というは、実相の如くして知るなり。広の中の廿九句、略の中の一句。実相に非ざることなきなり。

 私達は自分を押し立てて、対立を生きています。善悪、損得、勝他、さまざまな対立は、我より生じます。不二の心、南無阿弥陀仏に帰らされると柔軟心。動乱の中で落ち着かせていただきます。
私は自分の解釈した南無阿弥陀仏を称えていました。南無阿弥陀仏を私が称えていました。その全体が照らし出されたら、言葉が消えます。
水を以て影を取るに、清と静と相い資(たす)けて柔軟心を成就してくださる。
何もいうことがなくなったのです。

尽十方の無碍光は 無明の闇をてらしつつ
一念歓喜するひとを かならず滅度にいたらしむ

無碍光の利益より 威徳広大の信をえて
かならず煩悩のこおりとけ すなわち菩提のみずとなる

罪障功徳の体となる こおりとみずのごとくにて
こおりおおきにみずおおし さわりおおきに徳おおし

名号不思議の海水は 逆謗の屍骸もとどまらず
衆悪の万川帰しぬれば 功徳のうしおに一味なり

尽十方の無碍光の 大悲大願の海水に
煩悩の衆流帰しぬれば 智慧のうしおに一味なり
(いずれも親鸞聖人作「高僧和讃」) 

今回の同朋奉仕研修に参加して私は南無阿弥陀仏を大きくしていただいた感じがしています。あの先生、この先生、何派、何宗。我や彼、すべての対立が無くなって功徳大宝海。本来そういう世界にいるのです。

実相真如の法のこえ (藤解照海先生)

 娘との対立は、私の佛智疑惑より生じていました。
娘との対立という業の障りを、信心の問題にまで昇華していただくご縁となりました。
南無阿弥陀仏に反逆する佛智疑惑が娘との対立という形で実生活に現れて下さいました。海から浮いた一滴の水はすぐに蒸発してしまうはかないいのちです。海に帰入すればはかないいのちが永遠のいのちを賜ります。これ以上は言葉で表現できません。

 研修会のテーマは「ご信心」でした。常照さんは藤谷秀道先生の説かれた「直入の信、転入の信」を踏まえて、私達が求道する中で、知らず知らずのうちに腰を降ろし、勘違いをして歩みが止まってしまいがちになる問題を指摘して、あるべき方向を指し示して下さいました。聞法は倦まずたゆまず歩み続けなければなりません。帰命となって歩み続ける力を賜ります。もうこれで卒業ということは無いのです。ご信心というのは、止(や)まない精神をいただくこととも言えるのでしょう。
 今回の念仏同朋奉仕研修は私の悪業を転じていただくご縁となりました。娘をはじめ、お姑さん、長男、娘の義母も、私の念仏往生を手助けして下さる菩薩様と頂き直されます。
 浄土真宗の救いとは、単に目の前の苦しみが無くなったり、家族が平和になることではなく、その苦しみをご縁に、広く尊い世界に生まれさせて頂くことです。それぞれが抱える苦しみはきっかけであって、単純に家庭が平和になるとか、嫌なことが無くなるというものではありません。逆にあの苦難があったからこそ念仏往生という大利益がいただけたと、苦しかったことが御恩に転じられます。そして人の幸せを願うという人間には考えられない生き方を賜ります。そうならなければ念仏往生という教えは絵空事になってしまいます。私たちの生活に反映されない観念の教えになってしまいます。
 私の中の法蔵菩薩が、私を使って念仏同朋奉仕研修を呼びかけさせて下さり、本山にまで足を運ばせて下さり、私を南無阿弥陀仏の大海原に生まれさせて下さったというのが実感です。私の手の差し挟むなにものもありません。すべて仏さまのひとりばたらきです。私は智慧も無く、弱い人間に変りありません。周りの人間の言葉一つでうろたえる愚かな凡夫です。ゆえに仏さまに救っていただくのです。
 
正報は眉間の白ごう相より千副輪のあなうらにいたるまで、常没の凡愚の願行成就せるゆえに、また機法一体にして南無阿弥陀仏なり。われらが道心、二法、三業、四威儀すべて報仏の功徳のいたらぬところなければ、南無の機と阿弥陀仏の片時もはなるることなければ念々みな南無阿弥陀仏なり。されば、いずるいき、いるいきも、仏の功徳をはなるる時分なければ、みな南無阿弥陀仏なり。『安心決定抄』

研修会の余韻に浸っていると、「身心脱落、脱落身心」という昔聞いたことのあるお言葉が聞こえてきました。その瞬間、力が抜けたような感じがして、一瞬残念な気持がしました。そして空っぽの私の口からお念仏が出てくださったのです。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏 
この念仏同朋奉仕研修は私にとりまして、大変ありがたいご縁となりました。ご参加下さった29名の同行さま、4人の補導さん、教導を勤めた常照さん、すべての人に感謝申し上げます。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏                  
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