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江本常照 Emoto Joushou

質問
『通信』第86号「不可思議の功徳は浄土(真如実相の世界)にあり
答え
     通信第八十六号 不可思議の功徳は浄土(真如実相の世界)に在り

 新緑がまぶしい程に輝いています。四月はゆっくりできる時間が与えられて、畑に行くことが出来ました。ジャガイモの芽かきをして知らされました。実を結ぶためには土、肥料、植え付け、草取り、芽かけ、土かけ、等々たくさんの手間がかかる。人間が実りある人生を送らせていただくためにはもっともっとかかる。ましてや、信心の行者が誕生し、育つために親様(如来)、よき師のお手間をどれくらいかけたか知れない。・・・・南無阿弥陀仏。
仕事が楽しくできる。生きているそのままが楽しい。十八願の三心(至心(ししん)・信楽(しんぎょう)心(しん)・欲生(よくしょう)心(しん))に信楽(しんぎょう)心(しん)(如来のよろこび願う心)とあります。私には生きているのがただ苦しいという長い期間がありました。「人はあんなに楽しそうにしているのになぜ自分にはないのだろうか」とよく思いました。苦しい思いの下には信楽(しんぎょう)心(しん)が発起するための準備期間が必要であったのです。また何をしてもむなしくなぜか気力が出ないという長い期間がありました。それは欲生(よくしょう)心(しん)(如来の純粋意欲心)という芽が出るための準備期間であったのです。そして、自分も他人にも汚れた心や嘘が見えていやになる。真実はどこにあるのかわからない、しかし、どうにもならない。というあの期間にも至心(ししん)(如来の真実心)が動いていたのでした。如来の三心(一心)は人間世界になかったのです。聖徳太子が「世間虚仮、唯仏是真」、親鸞さまは「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」とお教え下さっていたのです。ジャガイモ様をご縁として如来さまからのご廻向のお教えでした。
また、こんなに大地の功徳を有難く感じさせられたことは初めてです。心身が癒され、鳥の声に和(なご)まされ、風呂、食欲、睡眠が十分に与えられるもったいない御利益であります。浄土論(願生偈)に地功徳の教えがあります。身を通して味わわされます。
このたび五年以上使わせていただいた長靴に穴があき、いよいよはけなくなりました。穴の開いた長靴を本堂の前に行き阿弥陀様の方に両手でささげてお礼を申し上げました。そういう心にいつの間にか成らされていることが有難いことでありました。その時、「この身心もお与えくださり、十分に使って頂いて役が終わる時は本当にお礼だな」としみじみ思わせて頂いたことでした。
私は八月に七十才、古希(こき)を迎えます。あと十年すれば八十才です。早いですね。私は本願のみ教えがなければ、心身が弱まり焦(あせ)りが出て、なさけなくなるだろうと思います。ところがご本願のお陰で年と共に本願の味わいが深く強くなっています。
藤谷秀道先生は親鸞さまのご一生を九歳で芽が出て(出家)、二十九才で法然聖人と出遇われ、つぼみとなり、五十才を過ぎて「教行信証」の完成で花が咲き、八十三才を過ぎて円熟された。と先生が八十五才ころの法話テープの中で語っておられます。身を通してのお教えですから味わい深く響いて来ます。
曾我量(そがりょう)深(じん)先生が藤代(ふじしろ)聡(とし)麿(まろ)先生に「長生きをしなさい、仏法が深く味わえる」との仰せが今の私に響いて来ます。身体の弱体化はどうする事も出来ませんが「正信偈」の中に

惑(わく)染(ぜん)の凡夫、信心発すれば、生死(しょうじ)即涅槃なりと証知せしむ

との親鸞さまのお教えがあります。そのお味わいを「生、老、病、死のままに救いあり」と大石先生からお聞きしました。
 仏法の教えでなければ、こういう世界は味わえないことでありましょう。世間では老いはさけ、病を嫌い、死を忌(い)み嫌い恐れるだけであります。ところが生まれた以上絶対に逃げられない事実であります。私の人生においてもこれまでご縁に遇った多くの方々がすでにこの世にはいなくなりました。そういうことをこの頃ふと感ずるようになりました。老、病、死が身近になって来たからでありましょう。  
大石先生は「クラス会と言っても年々人数が減り、やがて幻(まぼろし)の会と成る」とお書きになっています。人情で言えば淋しいことです。そこで考えてはだんだんと力が衰え、弱まっていくという事実を受け入れざるを得ないこととなるのでありましょう。逆らえば苦しむばかりであります。 
現代の日本人は平等と言う理念のもとに、競争をして社会の批判や主張をし、何かを勝ち取ることで成果があがったという価値感にかたよりすぎた勉強をして、正しい受け身の教育が弱くなってきた気がします。経済中心のあり方について疑問を持つゆとりがありません。宿業・本願という尊い教えは教育の中にありません。
不平不満が多い日本人の在り方を物語っている新聞記事を前号で書かせて頂きました。幸福度が先進7か国の中で最下位、世界でも147か国中55位ということでした。一見意外でしたけれども必然のことでもあるのです。未来がないと若い人たちの声があります。「その頃わしらは死んどる」とはお年寄りの捨て台詞(ぜりふ)です。考えてもしようがない。元気なうちに好きなことをして、おいしいものを食べ、旅にいこうというような本がベストセラーになっています。テレビは食事、旅の番組それから過去のドラマでいっぱいです。「こんなことで人間に生まれた甲斐があるのかな」と思わせられます。
四月からのNHKの朝ドラに「何のために生れて、何をして生きるのか。わからないなんて、そんなのはいやだ」という言葉がよく出て来る「あんぱん」というドラマがはじまりました。私はあまり見ていませんが本屋さんでもやなせたかし先生の本がたくさん並んでいます。多くの人の心の底にいつも問われているテーマでありましょう。解決のつかないままで、時は容赦(ようしゃ)なく過ぎていく、ふと我に返ると浦島太郎のように白髪の老人になっている。という人が少なくないのではないでしょうか。
ところが暗くなるほど星や月が輝いてくるように、不可思議な功徳の道があるのです。生老病死を出る道が仏道であります。若きお釈迦様の苦悩を深めたのは老、病、死の問題でした。そして、ついに解決の道を求めて出家されたのでした。
私どもには幸いに聞法の道があります。人として円熟していける道であります。先月の輪読会の後、嬉しいお便りが届きました。

 若葉の季節となりました。いつも輪読会ではお世話になります。我執の強い私は、聞いても、聞いても仏様の声がいまだ届きません。が、聞かせて頂く事で少しづつではありますが、私の在り方は、何かちがう、おかしいと気づかせてもらえる瞬間に出遇える時、ああ、聞かせて頂いてよかったと思う現状です。年と共に根気が失われつつありますが、これからも御教導の程宜しくお願いします。

大山京子さんは耶馬渓のお寺の坊守さんです。心が若々しい方です。必ずご質問を七,八回は
されます。質問される方は深まりが早いです。ご法座の後のよろこびの表情に私の方がいつも
救われます。
 宇佐市の渡辺和義さんからもメールが届きました。渡辺さんは十年以上前から三か月に一度自宅で本願道場のご法座を開いて下さっています。

  本日の輪読会は、ことのほか有難い僧伽(さんが)(法の集い)でした。無明と光は三界(さんがい)(欲界、色界、無色界)の外(そと)にあり、機の深信と法の深信に対応している。
   煩悩は無明から生じるので自分の意思でコントロールできるものではない。無明の闇を破(は)するのは、本願念仏しかない。向こうから私に御廻向される光(本願念仏)が届くとき、我が身に法蔵菩薩が誕生する。それを聞法精進により感得するのです。
   こういうふうに受け止めさせて頂きました。みなさんご熱心で時のたつのも忘れてしまいました。長仁寺の僧伽はありがたいです。
                                   南無阿弥陀仏
私よりも如来さまが慶ばれる感じがいたしました。人にお伝えできるまでなられるよう念願いたします。
 通信に対してのご感想のお便りも届きました。高木さんは大石先生宅の御法座でいつも昼の弁当のお世話をしておられた方です。

  続いてお世話様になります
  先ほどポストに通信の封筒を見つけ、早速読ませて頂きました。有難うございます。
   もう一度と思って読ませて頂きますと、今読ませていただいたのに、はじめての様なのです。私のために有難うございます。

 私も毎朝、大石先生のご書信を読ませて頂いていますが、百回以上繰り返し読ませていただい
ているのに不思議に毎日初事のように新鮮です。この世でそのようなよき師、ご文章のご縁を頂
いていることに無上の幸福感を味わわせて頂いています。
 以前、新潟の林康一朗住職さんのご案内で曾我量深・平澤(ひらざわ)興(こう)記念館にゆき、教えて頂いたこと
があります。平澤先生の色紙の裏に書かれていました。
 
「学問(聞法)は、はるかに先をゆく人を追いかけるような態度ですべきである。追えども追えどもおいつけず、油断すると見失ってしまうような気持で勉強すべきだ」( )は筆者。
 
私にとっての大石先生が、その通りの師であると言いたいところです。少し近づけたと思う瞬
間に、はるか先を歩いておられる。これが実感です。
二十七日の聞光道には千葉県から三橋(みつはし)祥(よし)江(え)さんがご参詣くださいました。欧州法座も見学したいとのことで二十六日から二泊されました。二晩とも夜中の十二時ころまで白熱の座談でした。追体験と言うことがありますが大石先生を囲んでの法座はいつも白熱がありました。ご書信に書かれています。

教えを受ける方も、人情や、学問、道徳や人間の努力ではついてゆけません。限界があります。挫折します。師と弟子との双方の奥に本願力が働き、ちょうど刀鍛冶が刀身を熱して、鋼(はがね)をつけるようなものです。双方が白熱してくると、刀匠の一(ひと)撃(う)ちで鋼がぴたっとつきます。最近は道を求める法友と、よく語り合います。願わくは、こう有りたいと思います。
                                  書信73信―7
また、思い出すことがありました。私が苦しくてどうしようもないとき、「江本さんが地獄に落ちているならわたしも落ちて私が先に救われる」と書信に書かれています。大石先生は上から引き上げるのでなく、むしろ姿勢の高い私の下に降りられて、先生が苦しい時代のことをよく語られました。私と同化され、お育て下さっていたのです。しかし、私は苦しいばかりでもがきが続きました。
 同じ子供でも病気の方の子が親にはいつも気にかかるように、私の中の如来さまは病の重い子が気になるようです。私の中の如来さまの活動がそのようにお働き下さることを通して、私は先生に手厚くお育て頂いてきたのかと思わせられるのです。
 一昨年の十月に法喜さんと道人君が長野県の善光寺さんへ行った時の土産話(みやげばなし)です。「戒壇(かいだん)めぐり」という綱(つな)をたどってしか進めない、真っ暗な回廊があった」ということを思い出しました。私たちは意識無意識を問わず無明(真っ暗な流転の闇)の人生を教え(綱)をよりどころに進んでいけるのでしょう。教えがなければ、「そらごとたわごと」の中で一生が空しく過ぎたということになります。一人ひとりに突きつけられた問題であります。
 つくづく、よき師、よき朋(とも)、尊きみ教えのご恩を知らされることであります。皆様、そして如来様に南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と頭(こうべ)を垂(た)れるほかあません。その心も私には無く、如来さまからのご廻向のたまわりものであります。

令和七年(2025)五月五日                      
 常照 拝


お知らせ

五月十二日(月)十一時より四時ごろまで東本願寺・同朋会館の一室にて
京都本願道場が開かれます。ご参加の方は十日までにご連絡ください。


                                    
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